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「努力をする、人好きの、熱い凡人」


人のおかげで今の自分の成長があるため、周囲の人を大切に幸せにしたいと考えています。
人財育成を通して、自己成長と国を越えた社会貢献がしたいと考え、活動しています。

DH→庶務→営業→経理→人事総務→経営企画→次のステップ準備中
                          └秘書    └韓国語講師



■漠然とした将来の夢

20歳の時(今から24年前)、小説とゲームが大好きでした。
息の詰まる日本の学校教育が自分に合わない、学校では自分が勉強したいことは学べないと感じていました。

だからといって、特にやりたいことも、得意なこともなく。

何か1つ抜きんでるスキルが欲しい、外国語がペラペラになって、世界で活躍したいと漠然と考えていました。
しかし、自費ではアメリカ留学は難しいという現実に、悔しい思いをしました。

 

そこで、今の自分にできる選択肢の中から何ができるかを考えました。
語順が同じで習得のしやすい韓国語を選び、勉強することにしました。

書店で韓国語会話の本を買って、毎日通勤電車の中で3ヶ月間、独りで勉強してみました。

でも、頭ではわかったようでも片言ハングル。
上手く話せるようにはなりませんでした。

このままではいけない!と思い、自費で韓国に単身留学をしました。

 

■韓国留学後

しかし、留学しても思うように話せるようにはなりませんでした。
※当時はスマホも無く、せいぜい電子辞書があるくらいでした。

コツコツ努力する習慣のおかげで試験では点数を取れましたが、ペラペラになれずもどかしく感じていました。
優秀な国費留学生や、親御さんのお金で留学している友達が羨ましく感じました。
そう感じるくらい、当時の私は劣等感の塊でした。
そんな自分がとても嫌でたまりませんでした。

自分の殻を抜け出すべく、韓国人の友達と一緒に行動するようになりました。
なかなか上達しない私に、根気よく韓国社会のことを教えてくれました。
友達と韓国ドラマを一緒に見ながらお菓子を食べたり、今後のストーリー展開を真剣に予想し合うのが楽しくて仕方ありませんでした。

何よりも嬉しかったのは、韓国語の生放送を逃した友達が、「今日はどんな展開だった?」と私に聞いてくれたことでした。

私が韓国人の好きなところは、親しくなったら身内意識が強いところです。
上手く話せなくても、聞き間違えているところがあったとしても、一旦私に聞こうとしてくれる気持ちが、疎外感を感じがちの私にはとても嬉しかったです。

また、私が上手く話せなくても、私の主張を無碍にはしませんでした。
「オンニ(年上の友達:私のこと)は次の回でこうなると思うんだって。」「そうかな?」「その理由は、~だからなんだって」というように、根拠を言えば信じてくれましたし、
「やっぱりオンニの予想通りだった」「オンニの予想と違ったよ」と、解説をしてくれたりもしました。

人として、きちんと向き合ってくれるところに居心地の良さを感じられました。

毎週の韓国ドラマ生放送が待ち遠しくて、友達が見ていなかった時、正確に説明してあげられるようにストーリー展開を正確に把握し、順序だてて説明できるように努めました。

この時の習慣が、高級過程の発表や討論会に役立ちました。


■語学院通学中のエピソード
何故か私だけ食中毒になって、半日トイレから出られず、下水も詰まってしまい、床が阿修羅場に・・・

ひとりで明洞に行ったら全財産をすられてしまい(ソメチギ)、お店の人に5000ウォン恵んでもらってやっと帰宅(明洞衣類の店員さんに感謝)

下宿先で全財産を盗まれる事件が起きてしまい、警察が現場検証に来て、猫じゃらしツールで指紋をポンポン採るのを見たり警察署に呼ばれて事情聴取されたりで、感情が揺さぶられても説明能力を求められる、韓国語が目覚ましくグレードアップする出来事が続きました笑
(ただただ泣くだけの私に、部屋のドアノブにビニール袋いっぱいに詰まったみかんをかけてくれた人がいたのを忘れられません。しばらくがそれが食事でした笑)

食費がないので、安い学食が食べられない夜は断食して勉強をして過ごしました。
(これは流石に「このままだと頭がおかしくなりそうだ」と思ったのでお薦めしません笑)

修学旅行先の安東(アンドン)で、バスの運転手がよそ見をして崖に落ちかけて、バスの前方が大破。
崖にほとんど傾いて転落寸前のバスの中で人命救助にあたり、帰りの道中で胃の中が何もなくなるほど戻して、その後1週間は顔色が悪かったとのこと・・・
(その出来事の影響で翌年以降、修学旅行が廃止になったのは残念でした。)

そのように、ドラマチックな展開で「楽しい」とは言い難かったのですが、必ず卒業までに最優秀賞を取ると決めていたので一心不乱に過ごしました。


■韓国で新卒で入社した会社が3ヶ月で倒産

語学院卒業前に奇跡的に内定をいただいて新聞社に入社したのですが、その会社は3ヶ月で倒産してしまいました。

入社直後から先輩社員が次々と退職していき、役員同士出資金のことで言い争う日々でした。
韓国人の先輩社員に、「何もできない新卒の私と同じ給料なのが嫌だ」と直接言われたこともありました。
そんな右も左もわからない外国人の私を雇ってくれた社長に何もできなかったことが不甲斐なく感じました。

韓国のトップ私立校である延世大出身の社長でも、出資金を十分集められても、サービスがニーズに合わなければ倒産してしまうほど経営は甘くないことを知りました。
いつか、経営を支えられるようになりたいと思うきっかけになりました。

 
■韓国での就職活動

その後、一人で就職活動をしましたが、全くうまく行きませんでした。

外国人だという理由で、最終面接で「ビザが欲しいから就職したいように見えます」と心外なことを言われたり、差別的な言葉を聞いて戸惑うこともありました。

滞在期間が長くなるほど生活は厳しくなる一方でした。
資金が少なくなると、お金がかかる人付き合いもままならず、ひとりで頑張るしかありませんでした。

結局、韓国語は見違えるほど流暢になりましたが、専門スキルの無い私は就職難の韓国では就職できませんでした。やる気だけでは通用しない、経歴と実績が必要ということを知りました。

 

辛いことが続き、韓国語能力試験6級にも落ちて、何もかもやる気を失ってしまいました。

何をどうすればいいかわからなくて暗中模索する時期が続きました。

そんな中でもコツコツと努力を続けていたら、6級に合格することができました。
短期間で成果を出す人もいますが、時間がかかったからこそ体得できたノウハウがあります。

語学習得は、日頃の習慣が何よりも大切だということを実感した出来事でした。
この時続けていた学習習慣が、後に日本での社会生活で役に立ちました。

再就職こそできませんでしたが、 ワーキングホリデー期間中、スピーキング特訓のために韓国人の友達を作って言語交換をしたり、ボランティアで事務をして韓国人と生のコミュニケーションをする環境に身を置きました。

気が付いたら2年の年月が過ぎていました。環境の重要性を実感した期間でした。


■留学中、日本一時帰国期間

話しは少し戻ります。
学費を稼ぐために、語学院在学時、休学期間中、3ヶ月毎に日本に一時帰国をしていました。

その時チャレンジした仕事が、まだサービス開始前のマイラインの飛び込み営業でした。

未経験で新米の20代が、トークスクリプトの通りに一生懸命話してもお客様からなかなか契約してもらえませんでした。
毎日どうしたらいいかわからず、辛くて仕方がなくて、真冬の公園で冷たいおにぎりを食べながら泣いていました。

その後、何故か担当地域で私のことを知っている方たちがいて、契約をしてくれたのを思い出します。
今を思えば、心配をしてくれた優しい住民の方々がいらっしゃったのだと思います。

この時、実力が伴わなくてもお客様のためにできることを一生懸命やれば、未経験でもそこそこの結果は出せることを知りました。

 

■韓国の4年制大学編入学

そのように稼いだお金で、やっと念願の韓国の国立大学(当時市立大学)の3学年に編入学ができました。

国語国文科を選んだ理由は、韓国語を愛する純粋な気持ちからでした。

外国人特別編入学試験は、複数名の教授からの厳しい質問に対し、論理的に説明する面接試験でした。
無事編入学を果たした後、カルチャーショックを受けました。


まず受講申請はWebで行い、事前説明はありませんでした。助教授に聞いても塩対応。教授に直接相談しなさいと。教授も煙たがり、取り合ってくれませんでした。

全て、自分で調べて自分で滞りなく受講をしなければなりませんでした。(後で理由を聞いたら、私が入学説明会の日に居なかったのでやる気がないと思った。外国人にはそういう人が多いからと助教授に言われました・・・仕事の関係で訪韓が遅れ、説明会に参加できないと相談したら、後日訪問しても良いと事務所側は言っていたのですが・・・業務改善が必要な状況だったようです苦笑)

編入学の場合、1年目に1~2年の必須科目・選択科目と3年の必須科目・専攻科目を全て履修し、1つでもD評価が付くと留年確定でした。

その理由は、私が理系から文系への編入学だったため、ただでさえ普通の韓国人の学生より科目数が多い上に、一般教養科目も履修する必要があったのです。実際に、韓国人の学生でも履修不足で留年になった人もいました。

そのような条件下で、限られた時間で自分が確実に単位を取れる科目を戦略的に攻略する方法を考えました。


初級英会話の授業は、当時24歳の私と、若くて優秀な他科の1年生と同じクラスでした。
韓国の大学生は、レベルが一番下のクラスでも英語がペラペラで発音も上手でした。

ネイティブ英語教授の前で発音の悪い片言英語をしゃべる私を指を刺して笑う生徒もいました。
ただ、不思議だったのは、そんな私が初級英会話でA評価を取れたのです。

会話は発音だけでなく、会話文の組み立て力、国語力をベースとしています。
英語は話せなくても、中学の時英語だけは高得点を取り続けていたことがありました。
そのときの経験が活かされたようでした。
このように、難しい試験の戦略的な乗り越え方を徐々に習得していきました。

当時、国語国文科は韓国人の学生でも卒業が難しいと言われていました。
専攻科目の試験は全て記述式で、選択式は1つもありませんでした。
また、相対評価だったため、センター試験(スヌン試験と言う)を通過してきた優秀な韓国人学生と対峙しなければなりませんでした。

毎週、課題の複数冊の専門書を熟読し、科目ごとにレポートを提出することが習慣になっていきました。
担当教授2人がソウル大出身の方で、発表中心の授業はそれまでの私の経験では到底追い付けないような難しさでした。
大勢の前で恥をかくのは当たり前だったので、この時図太さを鍛えられたのだと思います。

緊張とストレス解消のために、K-POPを口ずさんで踊っていたのですが、今を思えば楽観的なのも困難を乗り越えられる力になったのだと思います。(なりきって道端で踊ったのを偶然通りかかった教授と大学院生に見られて爆笑されましたが笑)


一番嬉しかったのは、専攻科目の国語(韓国語の国語)でA評価を取れたことです。
後日談なのですが、国語担当教授が私の解答用紙を国文学科長に持って行って、この学生にA+評価を与えて欲しいと嘆願してくれたそうです。

正直、試験ではそこまで素晴らしいことは書けていなかったと思います。
研究発表で、他科学生が「外国人が発表するらしいから余裕で勝てるだろう」と言っていたので
「よーし!反論を全てひっくり返せるようにプレゼンしよう!」と意気込んだ記憶があります。

そのように、いい意味で負けず嫌いな私の人づき合いの不器用さや、外国人への差別を目の当たりにして、力添えをしてくれようとしてくれたのではないかと思います。

その教授ご自身が専任教授になるために大変ご苦労されていたので、不器用な私を弟子のように想ってくださっていたのだと思います。

良い成績を取ると、噂が広がって、親しかった韓国人の友達の態度が急に変わりました。
学歴史上社会の韓国では仕方がないことでした。
日本人たった一人の環境を望んで入学したので、何とかひとりでやり抜くしかありませんでした。(大学院の先輩からの心理的なサポートがとても助かりました!)

この時は、試験とレポートと卒業論文の提出期限が重なって、課題論文の意味が理解できず、目が腫れるまで泣いたのを覚えています。
できなくても期限までにやり抜くことが、後にマルチタスクを行うための礎になりました。

周囲の方々の励ましのおかげで、いくつかの科目でA評価を取り、卒業条件の国家試験合格とTOEIC試験通過で、無事2年間で卒業することができました。

卒業後、師匠の日(ススンエナルと言う)、恩師に社会人として花束をお届けできたことがとても嬉しかったです。「立派になって!」と喜んでいただけたのが印象的です。(実はさほど立派ではなかったのですが...)

 

大学入学前に結婚していたので、学生生活と塾講師と主婦の3本柱をギリギリ維持していました。

朝、塾で2時間のレクチャーをした後、大学で受講し、休み時間に買い出しをして料理をして、夜はまた塾で2時間レクチャーをする日々でした。 
過労で、立った状態でホワイトボードのペンを持ったまま眠りかけたこともありました。(当時の学生さんたちに大変申し訳ない・・・)

最初は経験不足で生徒さんにもあきれられてしまうこともありました。
フリートーキングのグループレッスンでは、生徒さんが間違った日本語を広めてしまい、それを直すのに苦労しました。しかし、生徒さん真剣に向き合うことと、努力し続けることを諦めませんでした。

 

高学歴社会の韓国では、地方大出身者がいくら頑張っても、ソウル圏大学出身者の前では相手にされませんでした。悔しさをバネに、人気講師のレクチャーを真似たり、生徒さんが効率的に語学習得ができる方法を考え、トライ&エラーを重ねました。

どうしたら生徒さんの日本語を上達させてあげられるかを日々悩み、研究しました。 


大学卒業後、韓国では名前の知れた日本語塾に就職しました。
日本語留学試験対策クラスで、韓国の優秀な高校生に日本の高校の主要5科目を教えることになりました。

当時私が学んだのは、久々に勉強を再開した社会人の私より、毎日勉強をしている高校生の方が勉強ができるということです。

そこで、発表中心の授業にして、日本語は私がサポートすることで生徒さんたちが自発的に学習に取り組めるようにしました。

この時の卒業生は、のちに慶応義塾大学、中央大学、一ツ橋大学に合格しました。

時には、予備校に行くのが嫌だと、生徒さんが相談に来ることもありました。
この時の経験が、将来のことで悩んでいる人の力になりたいと思う契機になりました。

その後、ご縁からフリーランスでスポットで翻訳通訳や企業体出講を受託させていただいたり、
日本語教材のナレーター(日本人女性役)として声優をさせていただけたこともありました。

そんなある日、女子高で1年間日本語の授業を3クラス担当するお話をいただくことができました。
私なんかが高校で!?という思いもありましたが、せっかくご提案いただいたお話なので喜んでチャレンジさせていただきました。

その女子高でも良い意味のカルチャーショックを経験しました。
商業高校だったのですが、勉強に関心がない、勉強をほとんどしたことがない生徒さんが大半だったのです。
そのため、授業がはじまると、前を向いてもらうこと、集中してもらうことがとても難しかったのです。

そこで、どうしたら勉強に関心をもってもらえるかを研究しました。
生徒さん達が、何に関心があるのかを教えてもらいました。そうしたら、ほとんどがジャニーズの嵐のファンだったのです。

それを知って、授業中集中力がなくなってきたら、嵐の話題を振るようにしました。
そうしたら、みんなニコニコしながら、「こんな時日本語でどんな風に言うんですか?」というふうに、積極的に質問をしてくれるようになりました。

日本語に関心を持ってくれるようにするという目標は達成できましたが、全ての生徒さんを日本語をある程度のレベルまで上達できるように導くという課題は達成できませんでした。
できる生徒さんはできましたが、勉強の習慣がない生徒さんにいかに勉強を続けてもらえるかが課題でした。
趣味だけでは語学習得の高いハードルを越えるのは難しいと実感した期間でした。

勉強の前に、必ずやり遂げたいと強く思える動機確認と、習慣づくりに粘り強く取り組むことの大切さを感じてもらうこと、越えようとしている山がいかに高いかを目標の全体像をイメージできるようにしてあげることで、挫折を防げることを知りました。
この時感じ続けた自分への悔しさが、後に人財育成に対する強い意欲のもとになりました。

授業開始から1年後、学校の他地への移転に伴い授業も終了しました。
家庭の都合で田舎に引っ越しをするに伴い、慕ってくれた生徒さんと別れ惜しい気持ちと専業主婦になる不安な気持ちから、しばらくネトゲで韓国語の語彙力を伸ばしつつ、テキストコミュ力とタイピングを鍛えました笑


■出産・育児期間
韓国でのキャリアは一旦お休みして、出産・育児期間に入りました。

人は自分の力ひとりでは生きていけないと、痛いほど実感できたのが、2人目の育児でした。
1人目までは、理想的なママとして、ひとりで立派に育て上げる自信と気概がありました。(29歳当時)
1人目の娘をバイリンガルとして育てつつ、育児用品をオークションで販売していました。
今思えば、娘の素直で何でも食べてくれる性格のおかげだったと思います。

2人目出産後、予想外の展開が続きました。
まず、何を作っても食べてくれませんでした。
あまりに食べないので、オーガニック野菜を買って来て、朝4時から離乳食を作って、母乳授乳も時間通りに徹底しました。
それでも食べてもらえず、生後3ヶ月の予防接種後に原因不明の高熱が出て、大学病院での精密検査をすすめられました。

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大学病院では苦い思い出がありました。

1人目の時、高危険度妊娠で大学病院に長期間入院している間、突然盲腸になったのですが、その原因が特定できず、一晩中寝れずに激痛に耐えたことがありました。

いつまで続くかわからない定期検査と強い薬の使用に不安な気持ちが大きかったのですが、検査が上手くできないのを患者のせいにして八つ当たりする看護士さんがいて、それを病院側に報告したら、「病院にチクらないで私に直接言いなさいよ!」と、もっと酷い仕打ちを受けました。流産しそうだったので我慢して従いましたが、時を待って問題の看護士さんを外してもらうことができました。その過程が長かったので、ストレスが続いたのだと思います。外国人の、言うに言えない苦しさは、外国で住んだことのない人にはわかりません。

この出来事で、時を待つこと、悲観せず良い意味で諦めることを学びました。

余談ですが、あまりに入院期間が長いので、開き直って同室の癌患者さん達と毎日韓国ドラマを見ながら
家族のように過ごしていました。
韓国では妊婦さんには、周りの人たちもこぞって胎教に協力してくれるのですが、
形が綺麗で美味しいものをたくさん食べてと、美味しい食べ物を色々くださいます(!)。
そのおかげか、入院中体重が増えてしまい、食事制限が続きました笑
安定期に入院して寝たきりだった私は、お腹が空きすぎて寝れない日を飽きるほど繰り返していました。
それを見かねたトンセン(韓国語で仲の良い年下の友達のことを言う)が、
こっそりコーヒーショップのサンドイッチを差し入れしてくれました(!!)。
あの時の感激は、今も忘れられません。
毎日、味のしない減塩食か、断食続きだったので、トンセンが天使のように見えました・・・
そのように、「もうダメかも」という時に手を差し伸べてくれる方々のおかげで、
1人目は妊娠中の苦労が嘘のように、超!安産!でした。
産気づいた時、ちょうど大好きな善徳女王の生放送中だったので、
なんとかギリギリまでこらえてから病院に移動しようと思っていたのですが笑
産んでからも韓国ドラマが育児の活力になったことは、言うまでもありません笑
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話を戻すと、1人目を無事出産後も、娘が慢性病で定期的に大学病院に通院していました。
それがやっと落ち着いたと思っていたところで、2人目の娘の成長不振です。
体重が思うように増えてくれない悲しさと、いたたまれなさ、母親としての不甲斐なさは言葉で言い表すことができませんでした。

原因は、アルツハイマーの姑の介護で、私自身心と体に余裕がなかったからだと思います。
専門家の薦めを受け、悩んだ末、子どもの未来のために日本に完全帰国することを決意しました。
自分を大切にできないと、身近な人からも大切にされないということを学びました。

■日本帰国後

育児が落ち着いてきた頃、38歳の時(今から5年前)、17年ぶりに日本に社会復帰をしました。
ブランク期間が長かったので、日本社会に馴染めるか不安で仕方ありませんでした。
しかし、事務パートとして入職後、一度やると決めたらとことんやる!を信条に、仕事を選ばず何でもチャレンジしました。

その結果、1年後に3支店のバックオフィスを統括する管理部長、その1年後にフリーランスとして執行役員を受任させていただけるようになりました。
立ち上げの楽しさと責任の重さをひしひしと感じつつ、自身の社会経験の不足さに歯がゆい思いをしました。

また、現場経験のない業種でのマネジメントの難しさを痛感しました。
事業が軌道に乗り、手離れ可能になった時点で現場管理者に業務引き継ぎ後、現場経験のある歯科業界で執行役員を受任させていただきました。

短期間での事業再生に身を粉にして、体調を崩す時期もありました。

その経験を通して、ひとりの力では限界があることを知りました。
また、事業の安定と成長のためには組織の基礎づくりとその維持が大切だと痛感しました。

 

その後、大手外資系ファーストフード企業の人事スペシャリスト、人材系メガベンチャー営業部の派遣スタッフ管理職として従事し、コミュニケーション改善によるオペレーション効率化、業務フロー・マニュアル再整備を行いました。

社会生活ではどこででもあることですが、人が見ていないところで深刻なハラスメントが見受けられました。
業務過多のため、それを隠そうとする動きも見えました。
人事として、健全な組織とは何かを日々悩み、模索しました。

それを正面から改善しようとしたころ、信じられないことが何度も起きました。
学生の頃からそのような逆境を何度も乗り越えてきたので、いくつかの対処法で乗り越えました。

学ぶこと、調べること、必死に考え抜くことで、いくらでも突破口は見つけられました。
また、ひとりでやろうとしないこと、有能な周りの人の協力を仰ぐことがとても大切です。

自分がみんなの模範になろうと努力することで周囲に良い影響を与えることができ、それが自部署だけでなく配属先企業様にも良い変化を起こすことができることを知りました。


当時の上司、先輩、同僚、配属先の人事総務の方々に心から感謝しています。
色々なトラウマを乗り越えられたのは、些細なことを気にする私を励ましてくれたり、
うまく立ち回れなくて失敗をした時、机の下で泣いていた私を勇気づけてくれた方々のおかげです。

無理がたたって、実家で寝込んでいたとき、温かく見守ってくれた家族、
日本帰国後、文化の違いからいじめられたことが原因でバイリンガルであることを悩んだ優しい娘、
娘が命を失う危機を乗り越えさせてくれた当時の担任の先生、学校カウンセラーの方々に感謝をしています。 

■グローバル人財の育成

様々な組織内の課題と向き合う中、これからは個性とクリエイティブ性を活かした働き方で、人と社会に貢献したいと考えるに至りました。
それは、国を越えて自分を育ててくれた恩師、先輩、友人、家族、自分の周りの人と幸せで居たいからです。

変化が速く、1年前のやり方がすぐ通用しなくなる今の社会には、未知の世界、海外での経験が必要不可欠だと思います。

海外居住経験で得た図太さ(?)で、不安定を乗り切る楽しさを感じ自己成長しながら、グローバル人財を育成したいと考えています。

そのために、働き方にこだわらず、今を懸命に過ごしています。
近しい人を不必要に敵視するより、コラボレーションによる共創で、お互い成長できる関係性でありたいと思っています。

韓国ドラマ好きが講じて、韓国語の説明力を培いRPG好きが講じて、韓国のオンラインゲームで語彙力を培い不器用さが講じて、コミュニケーション力を培い、効率化の提案ができるようになり、観察好きな性格が講じて、組織の課題発見と改善策の提案ができるようになり、人好きとお節介が講じて、執行役員として事業成長に参加させていただけました。周囲方々のご協力のおかげで、可能性は自分で創れるということを学びました。


海外で学んだ、長いものに巻かれる、相手を攻撃することで自分を守る方法以外の「ジブンの守り方」を今の日本社会に伝わるようにしていきたいと思います。

また、韓国の保育園で、上の子が日本に帰省したとことがあるという理由で事実に反する差別を受け、卒園せず日本で過ごしました。

それを知った優しい保育士さん達が次々と辞めていったことを覚えています。

今、日本で起こっている出来事を見ると、その時を思い出します。

経営側と労働者側の両方の立場を知る者として、そのような差別でZ世代、α世代がこれ以上胸を痛めることのない社会になるよう、微力ながら尽力を尽くしたいという思いから、今は食育の傍ら勉強をしています。

長文、最後までご拝読いただきありがとうございました。